1,恋は花冷え、だけじゃない。―前―
桜咲く。
中学を卒業した私は、4月から始まる高校生活を楽しみにしていた。
なんて言ったって、合格通知を届けてくれた高校には、あこがれの先輩がいるから。
恋に落ちたきっかけは、
他の人が聞いたらあきれて笑ってしまうくらいのささいな理由だろうけど、成長するにつれて男子と話す回数が減っていた私には、充分すぎる出会いだった。
あのとき、私に向けてくれたほほえみはいつまで経っても忘れられない。
廊下で、グラウンドで、通学路で見かける度、胸がときめいて、どんどん気持ちがふくらんでいった。
先輩が卒業するまでに
机の3段目の引き出しに しまっておきたいくらい、大切なその思い出を胸に
友だちが作れるかよりも、先輩と会えるかどきどきして、昨日の入学式はきょろきょろしてばかりだったけど……。
それは、在校生も登校を再開するはずの今日だっておなじ。
「おはよ~!」
「おはよう」
ブレザーを着た学生が吸いこまれていく校門には、楽しそうなしゃべり声がひびいていた。
私はあまり顔を動かさないように気をつけながらも、視線をさまよわせて
「はよ、
「あぁ、おはよ」
“伊藤”……!
耳に入った名前に、心臓がはねた。
すぐさま声が聞こえた左のほうに視線を向けると、記憶のなかよりもすこしかっこよさが増している横顔が目に飛びこんでくる。
「え……?」
思わず小さな声がもれたのは、友だちに笑顔を向けている伊藤先輩のとなりに、きれいな黒髪の女の人がいたから。
校舎へと続く道のわきで満開の花を咲かせている桜が、ひらりひらりと花びらを落として、私の視線をくぎづけにした女の人の頭へ
顔の向きを反転させた伊藤先輩は、一拍置いて彼女の頭に手を伸ばした。
「ははっ、花びらついてる」
「えっ。やだ、もう」
黒い髪から薄ピンクの花びらをつまみ取った伊藤先輩に、女の人は照れ笑いを返す。
花びらを離した伊藤先輩の手が、女の人の手をにぎった瞬間を見てしまったら、もう
私が伊藤先輩を追いかけようとがんばっていた1年の間に、伊藤先輩には彼女ができたんだ。
桜が咲くころに冬のような寒さがもどることを、“花冷え”と言うらしい。
小説を読んでいて知った言葉だけど、その美しさに隠れた意味を知ったときの切なさは、今私の心をおおう感情をひとさじ取ったくらいの量だろうか。
思わず足を止めると、うしろからどんっと
「うわっ、ご、ごめん! 痛くなかった!?」
「あ……いえ、こちらこそ、すみません……」
背後から聞こえた声は、男の人のもの。
私は顔をうつむけて、小さくあやまった。
伊藤先輩に……彼女が……。
「……大丈夫?」
うしろから声をかけてきた男子が顔をのぞきこんできたのと、私のほおから
左から現れたメガネと、その
メガネの男子もまた、おどろいたように目を見張って、さっとあたりをうかがうように視線を走らせた。
「あぶないから、こっち」
「え……」
背中を押す手に、校門の内側へと
通りすがりに顔を向けられているのがわかって、こっちを見られてるのかなと はずかしく思った直後、視界をさえぎるようにメガネの男子が移動した。
「……どうしたの? 僕でよかったら、話を聞くよ」
「あなた、は……?」
ゆっくり顔を上げてメガネの男子を見る。
彼を一言で表すなら“
制服をきっちり着て、ネクタイもきれいに結んであるようすを見ると、まじめそうな
彼はどこか さみしそうにほほえんで「
「きみとおなじ、新入生だよ。きみの名前は?」
「あ……
「さくら……」
ぽつりと私の名前をオウム返しにつぶやいた鈴木くんは、近くに
つられて視線を上げた先には、他とおなじく満開に咲いた桜があった。
鈴木くんは私に視線をもどして、やさしさがにじみ出たような笑顔を浮かべる。
「すてきな名前だね」
「……あ、ありがとう」
春の暖かな風が吹いたように、その一瞬は心をおおう悲しみも吹き飛んで、うれしいような、気はずかしいような気持ちになった。
男の子に名前をほめられたのって、初めてかも……。
「中村さんは、……その、どうして悲しそうな顔をしてたの?」
“泣いていた”とは言わないところに気遣いを感じて、視線をそらす。
おそるおそる鈴木くんのうしろを見ると、絶えることなく通りすぎる生徒のなかに伊藤先輩の姿は見つけられなかった。
細く息を吐きながら肩を落として、唇をきゅっと閉じる。
「……なんでもないの。ただ、この学校に来なければよかったなって……ここを受験したことも、受かったことも後悔しただけ」
「え……?」
目の奥がつんと熱くなって、そうだよ、と心のなかで後悔が吹き荒れた。
中学で告白する勇気もなかったのに、伊藤先輩が好きだからって、ただそれだけの理由でこの学校を目指して、しずかに失恋して……。
本当に、バカみたい。
数分前までは期待とどきどきでいっぱいだったのに、今は伊藤先輩とおなじ学校にいたくなくて、べつの高校をえらべばよかったって思ってる。
これから3年もこの学校に通わなきゃいけないなんて いや。
「……なにか、あったの?」
「言いたくない……」
こんなバカみたいな理由、笑われるに決まってる。
私は瞳からあふれた涙を人差し指でぬぐいながら、桜の花びらがたくさん落ちている地面に視線をとめた。
「……そっか。あの、中村さん……」
鈴木くんは私の名前を呼んだあと、3秒ほどだまる。
なにを言いかけたんだろう、と視線を上げたとき、鈴木くんは
「ぼ、僕は、中村さんのことが好きです……っ」
「……え?」
ぽかん、と目を丸くする。
私、今、告白された……?
え、だって、鈴木くんとは今会ったばっかりなのに……。
「中村さんは覚えてないと思うけど、僕、入試のときに中村さんと話したことがあるんだ……!」
「え……入試の、ときに……?」
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