猫を享受する

約3,700字(読了まで約10分)


 悩むことに、疲れてしまった。
 悩んでばかりの“人間”なんて、もうやめたい。
 そう思って眠りに落ちたら、翌朝――。
 私は猫になっていた。


(うーん……どうしたものか)


 見下ろした手はもふもふの毛に(おお)われている。しかも短い。
 歩きたい、と思えば普通に歩けるし、目線の高さからはどう考えても簡単に登れないようなテーブルにも、ぴょんと飛び乗ることができた。
 その上に置いてある鏡を(のぞ)き見れば、なんとも愛くるしい美猫が、興味深そうに私を見つめ返してくる。


(猫の姿の私って、なんて可愛いんだろう)


 こんなの全人類がメロメロになって、一瞬で世界平和が()されるに決まってる。
 ただひとつ困ったことは、これからどうやって生きていこう、ということだ。
 自分の家なのだから、ここにあるものについては私が一番よく知っている。
 飼ってもいない猫のご飯なんて、家にはひとつもないのだ。


(……あ、調べれば用意できるかな。自分で作る猫のご飯のレシピとかありそう)


 発明家もびっくりの(ひらめ)きに背中を押されて、今度はベッドの上に投げ出したスマホを操作しに行った。

 一度テーブルから降りて、フローリングの床をてくてく歩いて、ベッドにぴょんと飛び乗る。
 第一の関門は、スマホがうつ伏せになっていたこと。
 でも私は元人間、(かしこ)いのだ。
 シーツを押し込むようにして、スマホの下に手を差し込み、くるんとひっくり返してやった。

 第二の関門は、ロックの解除。
 私の肉球にはちゃんと反応しているものの、人の指にはちょうどいいサイズのテンキーも、肉球基準だと小さすぎて、全然思った通りに押せない。
 しばらく格闘(かくとう)してロックは解除したものの、アプリ、キーボード操作なんて鬼の難易度で、私はしっぽを()らして諦めた。

 人間には平気でも、猫には毒となる食材もあると聞く。
 猫と接してきた経験のない私には、その毒となる食材さえ分からないのだ。
 家にあるものを適当に食べて服毒死(ふくどくし)するのも、何も食べずに餓死(がし)するのも嫌すぎる。
 ここはひとつ、猫の扱いを心得ている人間に拾ってもらわなければ。


(不安はあるけど、家を出よう)


 ベッドから飛び降りて、私は玄関に向かった。
 まぁ、人間のように扉を開けることはできなかったから、結局鍵を閉め忘れていたベランダの窓を開けて、外に出たのだけど。



(うわ、猫目線で見ると外ってこんなに広くて怖いんだ……)


 道路を渡り切る前に車が走ってきたらどうしようとか、元人間ならではの考えに取りつかれてビクビクしていると、白髪のおばあさんが歩いてきた。


「あらまあ、可愛い猫ちゃんだこと。野良(のら)の子かしら?」

(え……人間、でかっ)


 まるで巨人が迫ってくるように見えて、及び腰で2、3歩下がる。
 おばあさんは私から少し離れたところにしゃがみこんで、手を差し出してきた。


「いらっしゃい。大丈夫、怖いことなんてしないわ」

(うーん……)


 目尻の笑いジワを深めて、にこにことしている様子は、どこからどう見ても優しそうなおばあさんだ。
 その眼差(まなざ)しも、可愛い赤ちゃんを見るようにとろけている。


(……まぁ、大丈夫か)


 私は元人間、近づいてはいけない人と、大丈夫な人の見極めはできる……と思う、多分、きっと。
 てくてくとおばあさんに近づいて、無意識に手の匂いをかぐと、甘いあんこのような、お日様のようないい匂いがした。


「にゃぁん」

「あらあら、可愛いわねぇ。家に連れて帰りたいくらいだわ」

「にゃん!」

(拾ってくれるなら喜んで!)


 おばあさんの手に頭をぐりぐりこすりつけると、おばあさんは優しく()でてくれた。
 ソフトタッチで気持ちいい。


「家に来たいの?」

「にゃぁ~」

(そうです、そうです。私可愛いでしょう、いい子にしますから、お世話してください)


 これは猛烈(もうれつ)にアピールしなければ、と私はごろんと倒れてお(なか)を見せてみせた。


「まあ、人懐(ひとなつ)っこい子ねぇ。野良なんて可哀想(かわいそう)だわ。あの子の分が残っているし……あなた、家に来る?」

「にゃん!」


 元気よく返事をすると、おばあさんは顔をくしゃっと笑みの形に(くず)す。


「抱っこは平気かしら。ちょっとごめんなさいね」


 おばあさんの手が(わき)の下に入ってきて、ゆっくりと体を持ち上げられる。
 私は元人間だから、大人しく抱かれた。


「抱っこも平気なのね。よしよし、それじゃあ家に行きましょうか」

「にゃぁ」

(よろしくお願いします)



 時間にすると10分くらいだろうか。
 古民家(こみんか)と言った(おもむき)のおばあさんの家に着くと、さっそくご飯と水を出してもらった。


「あの子のお気に入りだったご飯なのだけど、あなたはどうかしら?」

「んなふ〜」

(美味しいです!)


 キャットフードがこんなに美味だったとは。


「うふふ、大丈夫そうね。いっぱい食べるのよ」


 そっと背中をひと撫でして、おばあさんの手が離れていく。
 カリカリをお腹いっぱい食して、水もたらふく飲むと、おばあさんは私を浴室に連れていった。


「そんなに汚れてはいなそうだけれど、外にいたから、一応シャンプーさせてね」

「くるる」


 猫や犬は水を嫌うと聞くけど、私は元人間。
 シャンプーも平気に決まってる。
 私は水や泡が目に入らないよう、まぶたを閉じながら大人しくぬるま湯を浴びた。


「ずいぶんと大人しいのね。以前まで家にいた子は大暴れして大変だったのよ」


 おばあさんはくすくすと笑いながら私を丸ごと洗う。

 以前にも猫を飼っていたのか。
 それならすぐにご飯を出せるのも、扱いが上手いのもうなずける。
 安心してお世話になれそうだと、私は(のど)を鳴らした。


 あちこちからおばあさんの匂いがするこの家は、なんとも居心地がいい。
 おばあさんと一緒に座布団に座って、テレビの音を聞き流す時間も、おばあさんの(ひざ)に寝転がって、わしわしと撫でてもらう時間も。
 久しぶりに味わう穏やかな時が心にじんわりと染(し)みる。


「私には孫がいてね。小学生の女の子なのだけど、それはもう可愛いのよ」


 おばあさんの声が嬉しそうに弾んでいる。
 けれど、それから落ち着きを取り戻したような声で、優しく語りかけてきた。


「“あの子”が亡くなってとても悲しんでいたから、あなたを見たらきっと喜ぶわ。孫とも仲良くしてあげてね」

「んにゃ~」


 私が返事をすると、おばあさんはおでこのあたりをくりくりと撫でる。


(あぁ、そこもいい……)

「今はあの子のお下がりしかないけれど、これからあなたの好きな物も揃(そろ)えていきたいわね」

「くるるる……」

(私の好きな物……。私はいつまで猫でいるんだろう……?)


 フリーランスで、今は新しい案件を探していたところだから、いなくなったとて、誰にも迷惑(めいわく)はかからないけれど。


(このままずっと猫として生きるのかな……)


 何せ急に猫になったのだ。
 多少消化しきれないもやもやはある。
 だけど、人間に戻りたいとも、今は思えない。
 戻ったところで、待っているのは悩み苦しみだ。


「あなたの好きな物は何かしら? うふふ、これからまた苦悩(くのう)するのでしょうね」

「……にゃぁ?」


 苦悩すると言いつつ、おばあさんは嬉しそうだ。
 悩むことの何がいいのだろうか。


「でも、幸せな悩みだわ。大切な子を幸せにしてあげるために悩むのですもの」

(大切な子を幸せに……)


 私の悩みは、誰かを幸せにするものだったろうか。
 (めぐ)り巡って、誰かを幸せにできていたのだろうか。
 全部の悩みが人のためではないから、自分を幸せにするための悩みだってあったかもしれない。
 いつから私は、悩むことに苦痛しか感じなくなったのだろう。


「あなたと出会ったことで、私も幸せになれるの。あなたと出会えてよかったわ」


 おばあさんは私の背中を温かい手で撫でる。


「生まれてきてくれてありがとう。これまで生きていてくれてありがとう。私と出会ってくれてありがとう」


 一言一言、ずっしりと重みのある言葉が、頭の上から優しく降ってくる。


「この歳になるとね、命の(とうと)さが分かるのよ。あなたが家に来てくれたおかげで、私はきっと、ずっと幸せでいられるわ」


 私は、そんなことを言ってもらえるほど、素晴らしい生き物ではないのに。


「あなたと生きていきたい。これから、よろしくね」

「……にゃぁ」


 うるっと、涙がにじむ。


(生きていてくれてありがとう、なんて……誰にも言われたこと、ないや)


 このおばあさんは、私を大切にしてくれる。
 それに甘えてはいけないと言う自分もいるけれど、今はその慈愛(じあい)に包まれていたいと思った。
 ずっと一緒にいたいと思えた。
 永遠に、猫のままだとしても。
 いつか、人間に戻ったとしても。
 おばあさんとの縁は切りたくないと、切れて欲しくないと、そう思ってしまった。


 だから私は、今もおばあさんと暮らしている。
 言語という人間の手足を取り戻して、もふもふの毛に包まれたまま。


「買い物に行くの? 私も一緒に行く」

「あらまぁ。それじゃあ、今日もお供をお願いしようかしらね、知枝実(ちえみ)ちゃん」



[終]

(※無断転載禁止)
この物語は、別名義でノベルゲームとして作った物語を、小説版として改変したものです。
→ノベルゲーム版「チルする5分