猫を享受する
悩むことに、疲れてしまった。
悩んでばかりの“人間”なんて、もうやめたい。
そう思って眠りに落ちたら、翌朝――。
私は猫になっていた。
(うーん……どうしたものか)
見下ろした手はもふもふの毛に
歩きたい、と思えば普通に歩けるし、目線の高さからはどう考えても簡単に登れないようなテーブルにも、ぴょんと飛び乗ることができた。
その上に置いてある鏡を
(猫の姿の私って、なんて可愛いんだろう)
こんなの全人類がメロメロになって、一瞬で世界平和が
ただひとつ困ったことは、これからどうやって生きていこう、ということだ。
自分の家なのだから、ここにあるものについては私が一番よく知っている。
飼ってもいない猫のご飯なんて、家にはひとつもないのだ。
(……あ、調べれば用意できるかな。自分で作る猫のご飯のレシピとかありそう)
発明家もびっくりの
一度テーブルから降りて、フローリングの床をてくてく歩いて、ベッドにぴょんと飛び乗る。
第一の関門は、スマホがうつ伏せになっていたこと。
でも私は元人間、
シーツを押し込むようにして、スマホの下に手を差し込み、くるんとひっくり返してやった。
第二の関門は、ロックの解除。
私の肉球にはちゃんと反応しているものの、人の指にはちょうどいいサイズのテンキーも、肉球基準だと小さすぎて、全然思った通りに押せない。
しばらく
人間には平気でも、猫には毒となる食材もあると聞く。
猫と接してきた経験のない私には、その毒となる食材さえ分からないのだ。
家にあるものを適当に食べて
ここはひとつ、猫の扱いを心得ている人間に拾ってもらわなければ。
(不安はあるけど、家を出よう)
ベッドから飛び降りて、私は玄関に向かった。
まぁ、人間のように扉を開けることはできなかったから、結局鍵を閉め忘れていたベランダの窓を開けて、外に出たのだけど。
(うわ、猫目線で見ると外ってこんなに広くて怖いんだ……)
道路を渡り切る前に車が走ってきたらどうしようとか、元人間ならではの考えに取りつかれてビクビクしていると、白髪のおばあさんが歩いてきた。
「あらまあ、可愛い猫ちゃんだこと。
(え……人間、でかっ)
まるで巨人が迫ってくるように見えて、及び腰で2、3歩下がる。
おばあさんは私から少し離れたところにしゃがみこんで、手を差し出してきた。
「いらっしゃい。大丈夫、怖いことなんてしないわ」
(うーん……)
目尻の笑いジワを深めて、にこにことしている様子は、どこからどう見ても優しそうなおばあさんだ。
その
(……まぁ、大丈夫か)
私は元人間、近づいてはいけない人と、大丈夫な人の見極めはできる……と思う、多分、きっと。
てくてくとおばあさんに近づいて、無意識に手の匂いをかぐと、甘いあんこのような、お日様のようないい匂いがした。
「にゃぁん」
「あらあら、可愛いわねぇ。家に連れて帰りたいくらいだわ」
「にゃん!」
(拾ってくれるなら喜んで!)
おばあさんの手に頭をぐりぐりこすりつけると、おばあさんは優しく
ソフトタッチで気持ちいい。
「家に来たいの?」
「にゃぁ~」
(そうです、そうです。私可愛いでしょう、いい子にしますから、お世話してください)
これは
「まあ、
「にゃん!」
元気よく返事をすると、おばあさんは顔をくしゃっと笑みの形に
「抱っこは平気かしら。ちょっとごめんなさいね」
おばあさんの手が
私は元人間だから、大人しく抱かれた。
「抱っこも平気なのね。よしよし、それじゃあ家に行きましょうか」
「にゃぁ」
(よろしくお願いします)
時間にすると10分くらいだろうか。
「あの子のお気に入りだったご飯なのだけど、あなたはどうかしら?」
「んなふ〜」
(美味しいです!)
キャットフードがこんなに美味だったとは。
「うふふ、大丈夫そうね。いっぱい食べるのよ」
そっと背中をひと撫でして、おばあさんの手が離れていく。
カリカリをお腹いっぱい食して、水もたらふく飲むと、おばあさんは私を浴室に連れていった。
「そんなに汚れてはいなそうだけれど、外にいたから、一応シャンプーさせてね」
「くるる」
猫や犬は水を嫌うと聞くけど、私は元人間。
シャンプーも平気に決まってる。
私は水や泡が目に入らないよう、まぶたを閉じながら大人しくぬるま湯を浴びた。
「ずいぶんと大人しいのね。以前まで家にいた子は大暴れして大変だったのよ」
おばあさんはくすくすと笑いながら私を丸ごと洗う。
以前にも猫を飼っていたのか。
それならすぐにご飯を出せるのも、扱いが上手いのもうなずける。
安心してお世話になれそうだと、私は
あちこちからおばあさんの匂いがするこの家は、なんとも居心地がいい。
おばあさんと一緒に座布団に座って、テレビの音を聞き流す時間も、おばあさんの
久しぶりに味わう穏やかな時が心にじんわりと
「私には孫がいてね。小学生の女の子なのだけど、それはもう可愛いのよ」
おばあさんの声が嬉しそうに弾んでいる。
けれど、それから落ち着きを取り戻したような声で、優しく語りかけてきた。
「“あの子”が亡くなってとても悲しんでいたから、あなたを見たらきっと喜ぶわ。孫とも仲良くしてあげてね」
「んにゃ~」
私が返事をすると、おばあさんはおでこのあたりをくりくりと撫でる。
(あぁ、そこもいい……)
「今はあの子のお下がりしかないけれど、これからあなたの好きな物も揃(そろ)えていきたいわね」
「くるるる……」
(私の好きな物……。私はいつまで猫でいるんだろう……?)
フリーランスで、今は新しい案件を探していたところだから、いなくなったとて、誰にも
(このままずっと猫として生きるのかな……)
何せ急に猫になったのだ。
多少消化しきれないもやもやはある。
だけど、人間に戻りたいとも、今は思えない。
戻ったところで、待っているのは悩み苦しみだ。
「あなたの好きな物は何かしら? うふふ、これからまた
「……にゃぁ?」
苦悩すると言いつつ、おばあさんは嬉しそうだ。
悩むことの何がいいのだろうか。
「でも、幸せな悩みだわ。大切な子を幸せにしてあげるために悩むのですもの」
(大切な子を幸せに……)
私の悩みは、誰かを幸せにするものだったろうか。
全部の悩みが人のためではないから、自分を幸せにするための悩みだってあったかもしれない。
いつから私は、悩むことに苦痛しか感じなくなったのだろう。
「あなたと出会ったことで、私も幸せになれるの。あなたと出会えてよかったわ」
おばあさんは私の背中を温かい手で撫でる。
「生まれてきてくれてありがとう。これまで生きていてくれてありがとう。私と出会ってくれてありがとう」
一言一言、ずっしりと重みのある言葉が、頭の上から優しく降ってくる。
「この歳になるとね、命の
私は、そんなことを言ってもらえるほど、素晴らしい生き物ではないのに。
「あなたと生きていきたい。これから、よろしくね」
「……にゃぁ」
うるっと、涙がにじむ。
(生きていてくれてありがとう、なんて……誰にも言われたこと、ないや)
このおばあさんは、私を大切にしてくれる。
それに甘えてはいけないと言う自分もいるけれど、今はその
ずっと一緒にいたいと思えた。
永遠に、猫のままだとしても。
いつか、人間に戻ったとしても。
おばあさんとの縁は切りたくないと、切れて欲しくないと、そう思ってしまった。
だから私は、今もおばあさんと暮らしている。
言語という人間の手足を取り戻して、もふもふの毛に包まれたまま。
「買い物に行くの? 私も一緒に行く」
「あらまぁ。それじゃあ、今日もお供をお願いしようかしらね、
(※無断転載禁止)
この物語は、別名義でノベルゲームとして作った物語を、小説版として改変したものです。
→ノベルゲーム版「チルする5分」